ASCO2012感想記(1)~個別化医療のコストを考える~

シカゴで開催されているASCOAmerican Society of Clinical Oncology 米国臨床腫瘍学会)に初めて参加している。全世界から3万人が参加する学会だけあって、噂に違わず、とんでもない規模の会場で、とんでもないイベントが開かれている。

(↓は展示会場を上から写したもの。これでも会場の1割程度のイメージです)

f:id:healthsolutions:20120602144541j:plain

 

 

ブログでは一日の中で一番おもしろいと感じたセッションもしくは講演の紹介を順々にしていきたい。

 

初日は、「肺癌の治療コスト:検査、個別化医療、緩和医療」というセッションの中で、プリンセス・マーガレット病院のNatasha Leighl先生がEGFR遺伝子変異やALK遺伝子変異の事例を用いながら解説した個別化医療の話が非常に興味深かった。

 

 

<新規治療にオカネをかける意義を測る:ICERQALY

 

本セッションの中で紹介された「ICERIncremental Cost Effective Ratio 増分費用対効果)」という概念を用いた分析を紹介する。簡単に言えば、新規の薬剤や検査を用いた治療戦略に変更することによって、従来の治療戦略と比べた費用の増分を便益の増分で割ったものだ。

 

ICER」については取扱いに注意すべき点が2つある。1つは、分子である費用の方は比較的理解しやすいが、分母の「便益」はなかなか厄介だということ。というのも、患者にとっての「便益」を定量的に表現するのは一筋縄ではいかないからだ。

 

この便益を測る指標として、「QALYQuality Adjusted Life Years 質調整生存年)」という概念がある。健康に大きな問題がない状態でまるまる過ごせる1年を1として、副作用など患者の生活の質に影響のある事象があると割り引かれる。どれだけの期間OSを延ばせるかは、信頼できる臨床試験の結果から導くことが可能だが、割引率をどのように考えるかはなかなかに難しい。Leighl先生の解説はQOLの指標を適用するというところ止まりで、場合によっては(例えば耐え切れない痛みがあるようなケースでは)QALYがマイナスになることもあり得るということだったが、何があるとどれくらいの割引率を適用すべきかという点について議論が分かれることは想像に難くない。

 

ICERのもう1つのイシューは、絶対値としていくらくらいだったらOKと考えるのか、だ。Leighl先生が紹介した非小細胞肺がんのEGFR遺伝子変異陽性のケースで、遺伝子検査と1stラインでのゲフィチニブ投与は、スェーデンの学者の試算ではICERQALY当たり25,900ユーロ(約250万円)、カナダの学者の試算ではQALY当たり81,807ドル(約614万円)であった

英国のNICEではICER2万ポンド(240万円)~3万ポンド(360万円)程度であることを、保険適用の一つの目安としている(http://www.nice.org.uk/newsroom/features/measuringeffectivenessandcosteffectivenesstheqaly.jspページ参照)ことを考えると、英国での保険適用は「黄信号」のレベルと言える。

 

 

<日本の治療体系と保険制度への意味合い>

 

このICERの考え方をもう一歩進めると、現行の日本の治療体系や保険制度に対し、2つの示唆が浮かび上がる。

 

日本は皆保険制度かつ混合診療原則禁止が前提のために、費用対効果という概念で治療戦略を考えていくという概念自体が未発達だが、今後、高額な分子標的薬がさらに増えていく中で費用対効果を考えた形に治療戦略を合わせていく必要が出てくるだろう。

 

例えば、腎がんのように現在でも分子標的薬が次々に出てきているような領域で、「順番はともかくABCDもすべての分子標的薬を“使い切る”」のが正しい戦略と言って憚らないような医師を見かける。あれだけ狭い領域の中で分子標的薬が4剤も5剤も出てくるような状況なので医師側も混乱しているのであろうが、前述のICERの考え方を適用したら到底容認できるレベルではない。保険財政が厳しい中、分子標的薬の使用に関しては個別化(患者の選択)を十分に行なったり、同じクラスの薬剤は原則1剤までといった形に、治療体系(ガイドライン)を整えていく必要があるだろう。

 

もう1つの示唆は、特にがんのような生命に関わる疾患の場合、「後期高齢者」と「働き盛り」で保険の自己負担率を現状と逆転させても良いのではないか、ということだ。人の命に差をつけてはいけないという論もあるだろうが、社会としてどちらにより重みを付けてサポートすべきかとなると、「働き盛り」の人だろう。後期高齢者の方が分子標的薬で延ばす1年と働き盛りの人の1年では重みが違うし、QALY単位で考えた時、後期高齢者の方はそもそものQOLADLが落ちていること、副作用のダメージも大きいことを考えると、ICERは後期高齢者の方が割高になる。従って、がんのような疾患であれば、むしろ後期高齢者の自己負担率を1割から3割に上げ、働き盛りの人を3割から1割に下げるくらいでないと公平にならない。

 

医に算術(経済)の議論は不要という向きはあろうが、保険制度で成り立っているということは算術の話を避けて通ることはできない。保険財政の逼迫度合いに鑑みても、日本こそ真剣に向き合っていかなければならない議論なのだ。