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1299469170**[雑感]”aicezuki”の京大カンニング事件が問う、これからの入試のあり方

世の中を騒がせた「aicezuki」、私のTwitter上のアカウント・ネーム「acesuzuki」と極めて似ているため、このペンネームが出てくるたびについついドキっとしてしまう。


正直、入試のカンニングごときがここまでニュースになって盛り上がるのには違和感があったが、それだけ日本の社会が「入試文化」に縛られてきていることの証左なのだろう。


マスコミは例のごとく、「ネットの功罪」的な視点での報じ方が目だったが、「今回の京大入試カンニング事件が問うている事の本質は、入試でWebを使わせないのではなく、使う事前提で知を問う事が求められる時代になったということ。」(3月4日「acesuzuki」のTweet)だと思う。




<世の中で本当に必要なスキル>


大学入試は、その後の人生で本当に必要になるであろうスキルや力を問うことが本分である。


少なくとも私が20年前に経験した東大の入学試験は、それなりに自らの頭の中で考えさせ、それをアウトプットさせる(書かせる)試験だった。採点も「正解」か否かだけではなく、解に辿り着くまでのプロセスがそこに示されていればそれなりに「部分点」ももらえるような問題作りがされていたと記憶しているし、今でもその点はさほど変わらないように見受けられる。


確かに実社会では、自分の頭で「論理的に考える力」と「アウトプットする力」が必要だし、それを入試では何らかの形で測ろうとする事自体は間違っていない。単なる情報の収集や検索は誰でも出来てしまうネット社会だからこそ、これらの力は更に付加価値が高くなる。


その上で、ネットが前提としてある現代社会で生き抜く上でのキモが他にある。それは、

 情報の海であるネットから効率よく必要な情報を抽出した上で自ら意味付け・昇華する(佐々木俊尚さんの提唱する「キュレーション」の概念)
 他人の頭もうまく使いながら行なう(”群衆の叡智”の活用)
 しかも、「高速」に行なう。他人がやったこと・言った事はデジタルに記録されるとすぐに流通してしまうので、「鮮度」が鍵になる。

といったことだろう。




<これからの試験のあり方試案>


では、これらのスキル・力をどのように試験で測るのか。


これを考える上で、月明飛錫さんのブログ・エントリー「ザッカーバーグを救ったソーシャルノート」に出ているザッカーバーグの大学時代の逸話が参考になる。なお、長くなるので引用はしないが、本エントリーに出てくるブログ主の試験のあり方についての考察は、大いに共感するところだ。


以下、引用

2004年1月、ハーバード大学の「アウグストゥス時代のローマ」という歴史の授業に一度も出席せず、指定された本も読んでいなかったマーク・ザッカーバーグ氏は、試験の数日前になり、「どつぼにハマっていた」(彼自身の言葉:just completely screwed)。なぜなら彼は、「フェイスブック」のプログラムの開発で忙しかったからだ。

(以下、引用)

「しかし、彼には二一世紀のコンピュータサイエンスを活用したアイデアがあった。まず、ウェブサイトを構築し、授業で使う図を置き、それぞれの図の横に議論を行うためのスペースを設けた。ひょっとして、他の学生がそのスペースを埋めてくれるかもしれない。結局、二四時間もしないうちに級友たちが適切な援助を行ってくれた。こうしてすばらしいノートが作成されたおかげで、ザッカーバーグを含みクラスの誰もがテストを優秀な成績で通過することができた。そして、ザッカーバーグによれば、教授はこれを不正行為とは考えなかった。教授は、学生がこのように独創的な方法で協業したことを高く評価したのだった。」(本書第2章「ビット漬けの世代」より)



上記のザッカーバーグの事例で感じるのは、「議論スペースを教授も見られるようにオープンにした上で、それぞれの学生の貢献度を測れば良いのに」ということだ。


これを大学入試で応用するとすれば、

□「必ずしも正解がないような課題」を出す

□30分オンラインコミュニティで議論させる

□残りの30分で自分の考えをまとめて書く

みたいなやり方が考えられる。コミュニティ上の議論も自分で考えて書いたまとめも、両方とも採点対象とする。


ここでのポイントは、オンラインコミュニティ上の議論も採点対象にすることだ。「他人の褌」でしか相撲をとれないような生徒はここではじかれる。このコミュニティを特設SNSにするか完全にオープンにするか等は、更に考えなければならないが。


例えば、日本史の問題で、「織田信長が幕末に生まれていたとしたら、どのような人生を送っていたと考えますか?」みたいな問題を出してみたら面白い議論が見られるだろう。


「設問設定」と「採点」は大変だろうが、現在の手法にしてもマークシート方式に頼っていなければ大変なのは同じ事。ともかく、こうやって試験のあり方を変えていくことによって、初等教育からの教育全体のあり方も進化していく。「知の総本山」を自認する大学にとって、今回の事件が知の本質のあり方を自身に問うていく契機になれば、”aicezuki”が投げた石も活かされるというものだ。