本当に必要な教育〜センター試験に思う〜

先日、母校の英語の恩師S先生にバッタリと地下鉄の駅でお目にかかった。


中学・高校を通じて6年間教わった先生で、授業がよく脱線して「阿佐田さんは...」と"雀聖"阿佐田哲也の話で気が付いたらその日の授業は終わっていた、なんていうことがしょっちゅうあった。とまあ超型破りの先生なのだが、"生き方"・"モノの考え方"を教わったという意味で、まさにS先生こそ"恩師"というべき存在なのだ。(S先生の名誉のために申し添えるが、先生の英語は米国仕込みの本当に筋の良い英語で、今それほど英語に苦労していない自分があるのはS先生のおかげである)


そのS先生、今年は高校3年生を担任されているらしく、「センター試験の結果が出てくるころだから、これから学校に戻って、生徒の面倒を見なければいけないんだ」とのこと。昔は、生徒は放っぽらかしの学校だったのに最近は随分手厚いんですね、と冗談半分で申し上げたら、「まあ、俺のことだから、放っぽらかしだけどな」とニヤっとされた。


で、最近のセンター試験はどうなっているのだろうとちょっと気になって問題を見てみたのだが、残念ながら"旧態依然"としか言いようのない問題がズラズラと並んでいる。特に地理や歴史などの文系の科目にがっかりした。


ウェブがこれだけ"人類共通の道具" となった今、求められるケイパビリティは「記憶力」ではないだろう。しかしながら、「知っているか知らないか」を単に問うている問題がいかに多いことか。選択肢形式では限界があるとはいえ、もう少し工夫をしてもらいたいものだ。


「知っている」ことの絶対的価値が大きく下がっている中で、今問われているのは、「知りたい情報を効率よく集める」「拾い集めた情報が何を意味するのか類推・解釈する」「それを"自分の言葉"で相手に伝わるようにアウトプットする」3つの力、である。


そうすると、突き詰めると「論理学」とか「プレゼンテーション(見せ方)学」のようなものが体系立てられて、新しい必須科目として登場するという時代を創っていかなければならないのではないか。また言うまでもなく、「語学」の重要性はいやますばかりだ。


S先生の数ある名言の一つに、「受験英語ってのは国語だ」というのがあった。僕が受験生だった当時は、いわゆる「英文和訳」が問題の過半を占めていた時代で、確かにその場合、国語力(表現力)の有無が大きく効いていたと感じる。ウェブ時代に求められているのは、まさに「表現力」そのものなのだ。そして、「表現力」を備えるためには、「人間力」が磨かれなければならない。真の意味での「全人教育」はどんな時代でも変わらず必要なものなのだ。